拓本の話


私は拓本の御話をしやう。
支那では昔からすべて文字で書いたものを大切にするが、誰が書いたところで相當に年月が經てばみんな消えて仕舞ふ。紙でも、絹でも、木でも、――名人が書けば木の中へ何寸も深く字が喰ひ込むなどと昔からいふことであるけれども、其木からが千年も經てば磨滅もする風化もする。無くなつてみれば勿論紀念にもならないし、習字の手本にもならない。そこで金屬や石といふやうな堅いものに刻りつけて、いつまでも保存するやうにすることが、もう隨分古くから行はれて居る。殷や周の銅器の刻文、秦の玉版や石刻の文字、漢魏の碑碣などがそれだ。みな千年萬年の後へ遺すつもりで作られたものだ。その文字のある所へ紙を載せて、その上から油墨で刷つたものが俗にいふ石刷即ち拓本で、もとより古を尚び、文字を大切にする支那のことであるから、この石刷をも、原本の實物のやうに大切にする。かうして拓本を作つて珍重することも支那では隨分古くからやつて居ることで、今日に遺つて居るのではまづ古いところでは唐時代のものであらう。それ以後五代拓、宋拓、元拓、明拓といふやうなわけで、勿論古い程尊ばれる。といふのは、いかに石でも金でも、年月が經てば矢張りいたむ。或は風雨に曝されたり、或は野火や山火事に焦がされたり、或は落雷で碎かれたり、或はまたそんなことが無くとも、餘り屡※(二の字点、1-2-22)拓本を取つた爲に石が磨滅して仕舞ふといふことは珍らしく無いからである。つまり古いほど完全に近い。隨つて古いほど貴いといふことになる。同じ碑の拓本でも、一枚は人が愛馬を賣つても寶劍を質に入れても手に入れなければならぬと騒ぐのに、他の一枚はたゞで貰つてもほしく無いといふやうな話も出て來る。漢の時代に建てられた西嶽崋山廟の碑は、實物は今は無くなつて了つてゐるのであるが、明時代に取つた拓本が一二枚今日迄遺つて居る。これなどは唯拓本による存在である。この西嶽崋山廟の拓本を二三年前に或る支那人が日本へ賣りに來たことがあるが、なんでも一枚三萬五千圓といふ値段であつた。其時に魏の三體石經の拓本も持つて來た。此石經は遠からぬ昔に土中から掘り出したものであるが、後に間もなく碎けて仕舞つた。そこで碎けないさきの拓本であるといふので一枚二千圓と號して居た。
これまで御話して來ただけでは、何だか支那趣味の骨董談のやうに聞えるかもしれぬが、それこそ心外千萬である。なるほど支那人が文字を大切にする態度には宗教がかつた處もあつて、我々としては一々支那人の通りといふわけにも行くまいが、とにかく古人が文字で書いて遺したものは美術であり、文學であり、同時にまた史料である。美術といふ熟語からが、ファインアートといふ英語の明治初年の直譯であるやうに、今日美術を論じて居る人々は、いつも西洋流の美學や、美術論や、美術史に頭が引張られて居るから、今のところではよほど偉い人で無い限りは、東洋の美術といふものに理解が薄い。ことに文字が東洋の美術の中で占めて居る殆ど最高の地位については、まるで無理解な人が多い。けれどもこれも東洋人が今少し落附いて物を考へる時が來ると共に次第に理解せられる時が來ると私は信じて居るのであるが、支那人の大切にする古代の文字の拓本は、即ち歴代の東洋美術の遺品であると考へ直して見て貰ひたい。これだけのことは、文字の拓本の美術的價値について、取敢へず申述べて見たのであるが、なるほど東洋で珍重された拓本は、これまでは、むしろ文字のあるものに片寄り過ぎて居たかも知れなかつた。しかし近頃は大同とか、天龍山とか、龍門とか、或は朝鮮や日本内地の石佛、又は其他の造型美術の拓本を作ることが行はれて來て、それが我が國の現代の學者、美術家、ことに新興の畫家、彫刻家に強い刺戟を與へて居ることは、目覺しい事實である。それから又、漢魏六朝から唐宋に及ぶ幾千の墓碑や墓誌の文章は其時代々々の精神や樣式を漲らした文學であり、同時にまた正史以上に正確な史料的價値を含んで居ることをよく考へて見なければならない。こんな事を私が今事新しく述べ立てるまでもなく、いやしくも今日眞面目に學問をやつて居る人の間に、拓本の功果を疑つて居る者は無い位の趨勢にはなつて居るのであつて、私の友人の或る學者は拓本する事と、寫眞を撮ることゝ、スケッチをすることの出來ぬ者は考古學や歴史を研究する資格が缺けて居ると、京都大學の學生に教へて居るさうであるが、これは私も全然同感である。寫眞が立體的に奧行きをも寫すのに對して、拓本の平面的なことは一つの短所であらうが、寫眞が實物より小さくなる場合が多いのに、拓本はいつも實物大で、しかも實物とわづかに濡れ紙一重を隔てたばかりの親しみの深い印象を留めて居る。拓本が持つ此強い聯想は到底寫眞の企て及ぶところでない。
話が前へ戻つて繰り返へすやうになるけれども、日本の金石文の拓本のことについて云つてみても、正史であるところの日本書紀の記載に間違ひのあることが、法隆寺金堂の釋迦像の銘文や藥師寺の東塔の※(「木+察」、第4水準2-15-66)の銘文から知られて來たといふやうなことは、今となつては誰も知る事であるが、此所に一つ面白い例がある。それは私は今、昔奈良の東大寺にあつた二つの唐櫃の銘文の拓本を持つて居るが、其櫃の一つは今は御物となつて正倉院にあるが、他の一方はもう實物は此の世の中から失はれたものと見えて、正倉院にも何處にもありはしない。ところがその失はれた唐櫃の銘文の拓本が私の所にあるといふわけだ。即ちその唐櫃は天にも地にも唯一枚の此拓本によつてのみわづかに存在を續けて居る。そして其銘文によつて、私は、これまで此等の唐櫃に歸せられた製作の時代について、一般學者の推定が實に五六百年も間違つて居たことも斷定し得るのである。實は此唐櫃は本來は二つだけのものでなく、四つあるべきもので、其一ともいふべきものが嘗て大倉氏の集古館に納められてあつたが、あの大震災のために燒けて仕舞つた。他の今一つの唐櫃こそは、長へに失はれて全く行く所を知らないのであるが、何かの機會はずみに、何かの僥倖で、せめて其銘文の拓本でも手に入れるやうなことがあり得たならば、我々の史的研究、ことに東大寺の研究に對して一大光明となるであらう。かう考へて來ると拓本には萬金の値ありといふべきで、しかも其値たるや、斷じて骨董値段ではない。
そこで私は、我が早稻田學園でも、先づ學生が拓本といふものゝ必要を覺り、よく此方法に親しみ、これをよく手に入れておいて貰ひたい希望から私は、少からぬ犧牲を忍んで、昨年の十月は私が年來祕藏して居た奈良時代の美術に關する拓本の大部分を第一學院史學部の學生の手に委ねて展覽會を開いて貰ひ、又十二月には第二學院の學術部の學生をわづらはして日本の古い寺院の瓦に模樣の拓本五六百種で、展覽會を開いて貰つた。すると官私立大學や民間の專門學者研究者が相繼いでやつて來て、參觀者名簿に署名せられた。
その内にも東京博物館の高橋博士や、萬葉學の井上博士の如きは、或は學生の分類を批評したり或は學生の成功を賞讚したりして歸られた。それから十二月に私が關西方面に旅行した時には、第二學院の學生の手に成つた瓦の拓本の繪葉書に對して、京都大學の天沼博士が加へられた眞劍な批評を聞き、それから旅先で見た二つの雜誌『史學雜誌』と『民族』とに、此等の催に對する賞讚的紹介を見た。つまり若い學生達の催でも、かうした學界の專門家達の眞面目な眞劍な興味を喚起したことは明かで、これを以て見ても、拓本の學界に於ける價値を知るに充分である。そこで私は、今年の四月には、更に進んで、支那の漢から六朝時代までの書畫の拓本をあつめて我が大學内で展覽會を開き、今秋は朝鮮の拓本の展覽會を開いて、學生及び世間の學者と共に研究の歩を進めて見たいと思つて居るのであるが、前囘の經驗からこゝに一つ私の不滿に思ふ事がある。それは參觀者の内に、學園内の人の方が學園外の人より比較的少かつた事である。どうか私の常に唱へて止まぬところの、學問の基礎を實際的に、即ち實物の上に置く學風、即ち私の謂ふ實學の態度が、我が學園を支配することの一日も速に實現せんことを祈る。
最後につけ加へていつておきたいのは、拓本の方法である。前囘拓本展觀會の宣傳ビラを方々へ貼らせたときに、この拓本といふ字が讀めない人、したがつて意味のわからぬ人が學園の内外に隨分多かつたやうで、中には會場に來て拓本そのものを見ても、まだその作り方などに就いてよく解らない人が多かつたやうだから、今簡單に方法を話して見れば、拓すべき石碑なら石碑の上に拓すべき紙を載せて、その上を少し濕氣のあるタオルで強く押へつける。――或は豫めタオルを卷いて置いて、それを紙の上へ押しつけながら轉がす方が手際よく行くかも知れぬ、――すると壓力と濕氣の爲めに紙は石面の文字のあらゆる凸凹にまんべんなく喰ひ込む。それから少し時間を措いて、紙の濕氣が少し乾くのを見計つて、饅頭のやうにふつくらと作つたタンポに、油墨か――これは其目的で作つたものを賣つて居る――、又はたゞ墨汁をつけて紙の上を輕く叩けば、それで拓本が出來る。こまかい事は實際の經驗上自分で發明するのが何よりだ。これが紙を濕らして取る方法であるが、濕されない種類のものは、實物の上へ紙をよく押しつけて、支那製の雪花墨又は日本製の釣鐘墨といふもので靜かにそして細かに其上を撫で※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はせば乾いたまゝで拓本が出來るが、西洋人は其代りに石墨などを用ゐるやうである。
拓本の趣味を語れといふ學報記者の註文に對して、私はむしろ拓本の實用と私自身の希望を語つて仕舞つたが、拓本の紙の質が支那、朝鮮、日本、同じ支那でも地方々々で違ふことや、タンポの打ち方や墨の濃淡に從つて表はるゝいろ/\の趣味や、平面だけしか取れぬ筈の拓本に全形を想はせる工夫のあることや、模本贋本の多いこと、その見分け方、拓した時代の見分け方、或は又自分で拓本を取つて居る時に低く續くタンポの音に伴つて起つて來るところの何ともいひ難い微妙な快感や、凡そそれこそほんとに拓本の趣味のことは、いづれ又暇な時に御話をする機會があるでせう。

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支那の明器


支那の明器

會津八一

私ほど名実の副はない蒐集家は無い。何か余程いゝものでも沢山持つて居るやうに云ひ囃やされながら、実は是れと云ふほどのものは何も持たない。
小石川に住んで居る頃に――これは十数年も前のことだが――諸国の郷土玩具を集めたことがあつた。六百種もあつたかと思ふ。しかしこれは世間の玩具通などのするやうに、いろいろの変つた物を集めて自慢をするといふのでは無く、其頃しきりに私の考へて居た原始的信仰の研究資料にと思つたのであつた。不幸にして此の玩具の大半は出版部の倉庫の中で洪水を喫つて全滅してしまつた。
次に私が今現に持つて居ていくらか話の種にしてもいゝと思ふのは支那の明器、即ち古墳から発掘される土製の人形や器物の類で、私の持つて居るのは百三四十点にも及んで居る。支那では三代の昔から人の死んだ時に墓の中へ人形を入れて御伴をさせる。所謂「俑」である。人形のほかに鶏や犬や豚や馬や牛などの動物或は器物、時としては建物まで御伴させることが漢時代以後だんだん盛に行はれ、唐に至つて流行を極めた。木で造つて着物を着せたものなどもあつた筈だが、木は長い間に皆な腐つて跡方も無く消え失せるので今日に残つて居るのは極く稀に玉製のものなどもあるが、たいていは土製ばかりである。土製と云つても瓦のやうに焼いて、上から胡粉を塗つて、其上へ墨や絵の具で彩色したものもあるし、唐時代などになると三彩と云つて黄、褐、緑、或は藍色の釉薬をかけた陶製のものもある。此の明器が支那でかれこれ云はれるやうになつたのはあまり古いことではなく、何でも京漢鉄道の敷設の時に古墳を発掘した欧人の技師が初めて見つけ出して、それからだんだん北京の骨董店などに現はれることになつた。最初は殆んど市価のないものであつた。それを有名な考古学者の羅振玉氏が買ひ蒐めて後に『古明器図録』といふ図録を作つた。其頃から世界の学者や鑑賞家の注意を惹いて、今では世界の何処の博物館にも沢山に蔵されて居り、欧米人の手で編輯された図録も沢山に出て居り、従つて研究も広く行はれて居る。日本でも東京帝室博物館や、東西両京の帝国大学、東京美術学校、個人では細川侯爵、校友の反町茂作氏などがいづれも優秀なものを沢山に持つて居られる。横川博士の蒐集は近年宮内省へ献納された。美術的によく出来て居て、色彩が製作当時のまゝで、おまけに形が珍らしいものなどになると数百円から千円以上のものも稀ではない。しかし上海あたりの場末の道具屋の店さきに曝されて居るいかものには一円で二つも三つも呉れてよこすやうなものもある。つまり明器の価格はピンからキリまである。
そこで、なぜ世界の隅々まで、急に此の明器をそれほど珍重するやうになつたかと云ふに、それは少しも無理も無いことで、支那の骨董品として大昔から古銅器即ち鐘鼎の類が非常に尊重されたものであるし、唐宋以後になれば支那特有の絵画も次第に発達して其遺品も今日に於ては豊富に伝へて居る。しかし唐時代以前の美術彫刻はと云へば、これまでは漢時代の画像石か六朝時代の仏像或はその附属物として沙門の像や獅子位のものであつた。ところが一度此の明器の類が続々と出土するに及んで、漢時代ではこれまでの画像石のやうに線彫りでなく、丸彫りの人形や動物、ことに嬉しいのは六朝以後唐時代に至る間の将軍、文官、美人、奴婢、家畜などの風俗的生活が吾々の眼前に見せられることになつた。即ち天地を祀る祭器としての銅器や、装身具としての玉器や、仏教の偶像だけしか無かつた支那美術の畠に、それこそ本統に人間らしい、柔らかい感じの、気のおけない人間生活の彫刻が現はれたわけである。そこで美術上からも考古学上からも、或は唯の物好きからも、欧米人などが、ことに大騒ぎするのは決して無理も無いことである。人によると墓から出たといふ事を、いつまでも気にしてゐる人があるが、千年から二千年も経つた今日に及んでまだそんな事を気にしてゐるやうでは、よくよく学問にも芸術にも因縁の無い連中と云ふよりほかは無い。又無暗に贋物を恐がる人もある。たかゞ土製の人形が、何十円何百円に売れるといふことになれば、墓を掘るまでもなく、偽物を作つて金儲けをすることを知らぬ支那人ではないから、事実贋物は随分沢山ある。支那の或る地方では一村挙つて此の贋物製造を商売にしてゐる所さへあつて、念の入つたことには一旦造り上げて彩色までしたものをわざと土中に埋め、其上から汚い水などを引懸けて、二三年目に掘り出して、いゝ加減に土を落して市へ出すといふやり方もある。また真物から型を抜き取つて、其型で偽物を作つたり、真物は真物でも素焼の所へ後から釉薬をかけるといふやゝこしい法もある。だから支那の市場には夥しい、しかも紛らはしい贋物があるのは事実である。そこであちらを旅行して、そんな現場を見せられて帰つて来た人の土産噺などを聞いて無暗に恐れをなす人のあるのも無理もないことであるが、贋物の多いのは何も明器に限つたわけでは無いし、又支那に限つたわけでも無い。何処の国でも古いものは贋物の方が多い。そこで明器買ひも頗る眉唾であるが、眉に唾ばかりつけても、わからない人には矢張りわからない。北京や上海や何処に行つたことがあつてもそれだけではわからない。支那人でもわからない人は矢張りわからない。しかしわかる人が見れば何でもなく直ぐ見分けがつく。贋物が恐いと尻込みする人は、私は美術がわかりませんと自白して居るのと同じことだから、さういふ人は手を出さぬ方がいゝであらう。
贋物は支那製ばかりでは無く、独逸風の応用化学で巧に三彩の真似をしたものや、また日本製の物もある。或は遥々東京まで来てから、白粉の塗り直し黛の描き直し、着物の染め直しなどをやるのもある。又全く贋物と云ふ意識は無く、一種の尚古趣味から京都あたりの相当な陶工が自分の手腕を見せるつもりで真剣に作つたものもある。それ等も目のある人が見れば何の苦もなく見分けが附くものである。
ところが私は誰も知る貧乏人であるのに今日までに、可なりの数まで集めるには随分骨が折れた。私の手まへとして一個百円前後もする物をいくつも買ふことは出来るわけがない。そこで私は月給のあまりで足りない時は窮余の一策として自分の書いた書画に値段を附けて展覧会を開いて、其収入でやうやく商人の支払を済ませたこともある。さういふ展覧会を私はこれまでに東京の銀座で一度、郷里で三度も開いた。こんな手もとで私があつめたものだから蒐集として人に誇るほどのものは何一つ無い。従つて安物づくめである。それこそゲテモノ展の観がある。しかし私は苟しくも早稲田大学で東洋美術史といふ少し私には荷物の勝つた講義を御引き受けして居る関係から、何も持たぬ、何も知らぬでは済まされないと思つて、とにかく微力の限り、むしろそれ以上を尽したものである。だから何処の役人に対しても、富豪に対しても、蒐集の貧弱を愧ぢる必要は少しも無いつもりである。明器の話は、私としては教場ですべき仕事の一つだから、ここでは先づこれ位のことで止めにする。
私は最近に朝鮮の或る方面から、昔の新羅時代の古瓦を、破片混りではあるが四百個ばかり買入れた。これまで私の手もとにあつた日本や支那の古瓦二百個を加へると六百ほどになる。これも私としては東洋美術史研究の標本であつて、決して道楽三昧でやつて居るわけではないが、とにかく之れも一つの蒐集といへば蒐集であらう。

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菊の根分をしながら


菊の根分をしながら

會津八一

昨日が所謂彼岸の中日でした。吾々のやうに田舎に住むものの生活が、これから始まるといふ時です。私も東京の市中を離れた此の武蔵野の畑の最中に住んで居るから、今日は庭の隅に片寄せてある菊の鉢を取り出して、この秋を楽しむ為に菊の根分をしようとして居るところです。実は私は久しいこと菊を作つて居るのであるが、此二三年間は思ふ所あつて試にわざと手入れをしないで投げやりに作つて見た。一体菊と云ふものは其栽培法を調べて見ると、或は菊作りの秘伝書とか植木屋の口伝とかいふものがいろ/\とあつて、なか/\面倒なものです。これほど面倒なものとすれば、到底素人には作れないと思ふほどやかましいものです。そして此色々な秘訣を守らなければ、存分に立派な菊が作られないといふことになつて居る。ところが私は昨年も一昨年もあらゆる菊作りの法則を無視して作つて見た。たとへば春早く根分けをすること、植ゑる土には濃厚な肥料を包含せしめなければならぬこと、鉢はなるべく大きなものを用ゐること、五月、七月、九月の芽を摘まなければならぬこと、日当りをよくすること、水は毎日一回乃至数回与へなければならぬこと、秋になつて又肥料を追加し、雑草を除くことなどと、まだ/\いろ/\の心得があるのにも拘らず、二三年の間は私はまるで之をやらなかつた。根分もやらず、小さい鉢に植ゑた儘で、土を取り替へもせず、芽も摘まず、勿論水も途絶え勝であつた。云はゞあらゆる虐待と薄遇とを与へたのだ。それでも秋になると菊は菊らしくそれ/″\に蕾が出て、綺麗な色で、相当に優しい花を見せてくれた。それで考へて見れば菊の栽培といつても絶対的に必須なものでもないらしい。手入れをすれば勿論よろしい。しかし手入れが無くとも咲く、植木屋などがよく文人作りなどと名をつけて売つて居るのは私などから見れば、いつも少し出来過ぎて居て、かへつて面白くない。私の庭の隅に咲いた菊の花の天然の美しさにより多く心が惹かれぬでもない。
併し考へて見ると、世間で観賞されて居る多数の植物の中では温室の中で一定の化学的成分を含んだ肥料を施さなければ生長しないもの、湿度や温度を綿密に塩梅しなければ出来ない物、特別な光線を与へなければならぬものとか色々なものがある。保護が無ければすぐ枯れて仕舞ふ。斯ういふ植物と、虐待、欠乏の中にあつて、尚強い根強い力を振り起して何時までも生き長へて美しい花を開く私の庭の菊の如きものと比較して見ると、無限の感慨が生ずるのである。之を人にたとへて云ふならば名望のある富貴の家に生れて、健全な父母を保護者として育ち、求め得ざるは無く、欲して遂げざるはなく、教育も思う儘に受けられ、何一つ事を欠かぬといふ人もあらう。又相当に艱苦にも、欠乏にも堪へて行かなければならぬ人もあらう。一体今の世の中には、放置せられて居て、なほ自分自身の根強い力を振り起してやがては美しい花を咲かせるだけの意気込のある少年が多いであらうか。文化の進むにつれて、温室の中の植物のやうな人が、漸く増加して来るのは免れ難い傾向である。試みに田舎の少年と都会の少年とを比較すると、其間にももう斯うした区別が認められる。世の中が複雑になつて、文明の設備を利用することが多くなれば、自ら人間の性質が変化して天然の素質が幾分かづゝ弱つたり失はれたりして行くことも止を得ないかも知れないけれども、吾々は吾々として最も大切なものを失つてはならぬ。それは吾々の心の底によこたわつて居る根強い力である。
今日のやうな日に縁側から外を眺めて、暖かな太陽の光を浴びて、大地の底や枯れたやうな老木の幹から、輝いた鮮かな芽が萌え出て居るのを見る時に、私は其中に何とも云はれない一種の力を感ずる。そして草木にも吾々人間にも天然に与へられてある此力を限りなく頼もしく思はずに居られない。
そも/\吾々が生れ出て勉強して世の中へ出て暮らして行くのは人に頼まれてのことではない。吾々自身が持つて生れた力、これを自分の境遇に応じて、時としては境遇以上にも伸びるだけ伸ばして行く為めである。吾々が貧困の家に生れて欠乏の中に生長し、如何程の苦学を重ねても、自分の心の底に此力を見出して進んで行かねばならぬ。それにつけては独立自恃の精神ほど大切なものは無いのである。
しかし私は今年は菊を作るのにこれまでとは全く方針をかへて、根分も、採光も、肥料も、剪定も、灌水も出来るだけの優遇を与へて昨年よりは一層美しい花を見たいと思つて居る。独立自恃の精神のあるものは容易に他の援助や庇護を希はない。しかし援助を与へて庇護を加へらるべき第一の資格は此の独立自恃の精神の存在である。一昨年以来菊が私に示した悲壮な態度、その元気の頼もしさに私も心から栽培を促されるのである。同情や援助といふものは求めても無暗に与へられるものではない。猥りに左様いふものを求めざる人こそ与へらるべきであるのだ。
それから又、いよ/\菊の苗を分けようとするときに、如何なる苗を選ぶべきであらうか。勿論吾々は最も有望な苗を選ばなければならぬ。一株の古根からは幾十本となく若い芽が吹き出して居る。それが一様に生気に満ちたもののやうに見える。しかし経験のある栽培家は思ひもかけぬほど遠い所へ顔を出して居る芽を択ぶのである。親木のわきに在る芽はどうしても弱い。よくよく自分の活力に自信のあるのが親木をたよらずに遠くまで行く、其意気を栽培家は壮なりとするのである。私も今年は勿論そのつもりである。
世に云ひ古された、「今日になりて菊作らうと思ひけり」といふ俳句、是は格別文学的でもないかもしれぬが、秋を迎へてから他人の作つた菊の花を見て、羨しく思つて眺める気持を詠んだもので誰にも経験しさうな事であるだけに有名な句になつてゐる。しかし此句を修養的に味つてみようとする人は、秋になつたらもう遅い。此句を誦みながら庭なり畑なりへ下り立つて季節を失はずに、しかも自分で土いぢりを始めるならば、やがては其花の如く美しい将来が、其人の身の上にも展開して来るであらう。
私はさきにもいふやうに落合村の百姓で、歌人でも何でも無いけれども、今日はあまりに気候の心地よさに、歌のやうなものが少しばかり出来た。それを此所で御披露に及ぶといふことにしよう。

さ庭べの菊の古根も打ち返へし分ち植うべき春は来にけり
菊植うと下り立つ庭の木の間ゆもたま/\遠き鶯の声
取り持てばもろ手にあふれ籠に盛れば籠にあふれたる菊の苗かも
十の指土にまみれて狭庭べに菊植うる日ぞ人な訪ひそね
今植うる菊の若草白妙に庭を埋めて咲かずしもあらず
今植うる菊の草むら咲き出でて小蜂群れ飛ぶ秋の日をおもふ
武蔵野の木ぬれを茂み白菊の咲きて出づとも人知らめやも
武蔵野の霞める中にしろ妙の富士の高根に入日さす見ゆ

一片の石


一片の石

會津八一

人間が石にたよるやうになつて、もうよほど久しいことであるのに、まだ根気よくそれをやつてゐる。石にたより、石に縋り、石を崇め、石を拝む。この心から城壁も、祭壇も、神像も、殿堂も、石で作られた。いつまでもこの世に留めたいと思ふ物を作るために、東洋でも、西洋でも、あるひは何処のはてでも、昔から人間が努めてゐる姿は目ざましい。人は死ぬ。そのまま地びたに棄てておいても、膿血や腐肉が流れつくした後に、骨だけは石に似て永く遺るべき素質であるのに、遺族友人と称へるものが集つて、火を点けて焼く。せつかくの骨までが粉々に砕けてしまふ。それを拾ひ集めて、底深く地中に埋めて、その上にいかつい四角な石を立てる。御参りをするといへば、まるでそれが故人であるやうに、その石を拝む。そして、その石が大きいほど貞女孝子と褒められる。貧乏ものは、こんな点でも孝行がむづかしい。
なるほど、像なり、建物なり、または墓なり何なり、凡そ人間の手わざで、遠い時代から遺つてゐるものはある。しかし遺つてゐるといつても、時代にもよるが、少し古いところは、作られた数に較べると、千に一つにも当らない。つまり、石といへども、千年の風霜に曝露されて、平気でゐるものではない。それに野火や山火事が崩壊を早めることもある。いかに立派な墓や石碑でも、その人の名を、まだ世間が忘れきらぬうちから、もう押し倒されて、倉の土台や石垣の下積みになることもある。追慕だ研究だといつて跡を絶たない人たちの、搨拓の手のために、磨滅を促すこともある。そこで漢の時代には、いづれの村里にも、あり余るほどあつた石碑が、今では支那全土で百基ほどしか遺つてゐない。国破れて山河ありといふが、国も山河もまだそのままであるのに、さしもに人間の思ひを籠めた記念物が、もう無くなつてゐることは、いくらもある。まことに寂しいことである。
むかし晋の世に、羊※(「示+古」、第3水準1-89-26)といふ人があつた。学識もあり、手腕もあり、情味の深い、立派な大官で、晋の政府のために、呉国の懐柔につくして功があつた。この人は平素山水の眺めが好きで、襄陽に在任の頃はいつもすぐ近い※(「山+見」、第3水準1-47-77)山といふのに登つて、酒を飲みながら、友人と詩などを作つて楽しんだものであるが、ある時、ふと同行の友人に向つて、一体この山は、宇宙開闢の初めからあるのだから、昔からずゐぶん偉い人たちも遊びにやつて来てゐるわけだ。それがみんな湮滅して何の云ひ伝へも無い。こんなことを考へると、ほんとに悲しくなる。もし百年の後にここへ来て、今の我々を思ひ出してくれる人があるなら、私の魂魄は必ずここへ登つて来る、と嘆いたものだ。そこでその友人が、いやあなたのやうに功績の大きな、感化の深い方は、その令聞は永くこの山とともに、いつまでも世間に伝はるにちがひありませんと、やうやくこのさびしい気持を慰めたといふことである。それから間もなくこの人が亡くなると、果して土地の人民どもは金を出し合つてこの山の上に碑を立てた。すると通りかかりにこの碑を見るものは、遺徳を想ひ出しては涙に暮れたものであつた。そのうちに堕涙の碑といふ名もついてしまつた。
同じ頃、晋の貴族に杜預といふ人があつた。年は羊※(「示+古」、第3水準1-89-26)よりも一つ下であつたが、これも多識な通人で、人の気受けもよろしかつた。襄陽へ出かけて来て、やはり呉の国を平げることに手柄があつた。堕涙の碑といふ名なども、実はこの人がつけたものらしい。羊※(「示+古」、第3水準1-89-26)とは少し考へ方が違つてゐたが、この人も、やはりひどく身後の名声を気にしてゐた。そこで自分の一生の業績を石碑に刻んで、二基同じものを作らせて、一つを同じ※(「山+見」、第3水準1-47-77)山の上に立て、今一つをば漢江の深い淵に沈めさせた。万世の後に、如何なる天変地異が起つて、よしんば山上の一碑が蒼海の底に隠れるやうになつても、その時には、たぶん谷底の方が現はれて来る。こんな期待をかけてゐたものと見える。
ところが後に唐の時代になつて、同じ襄陽から孟浩然といふ優れた詩人が出た。この人もある時弟子たちを連れて※(「山+見」、第3水準1-47-77)山の頂に登つた。そして先づ羊※(「示+古」、第3水準1-89-26)のことなどを思ひ出して、こんな詩を作つた。

人事代謝あり、
往来して古今を成す。
江山は勝迹を留め、
我輩また登臨す。
水落ちて魚梁浅く、
天寒うして夢沢深し。
羊公碑尚ほあり。
読み罷めて涙襟を沾す。

この一篇は、この人の集中でも傑作とされてゐるが、その気持は全く羊※(「示+古」、第3水準1-89-26)と同じものに打たれてゐるらしかつた。
この人よりも十二年遅れて生れた李白は、かつて若い頃この襄陽の地に来て作つた歌曲には、

※(「山+見」、第3水準1-47-77)山は漢江に臨み、
水は緑に、沙は雪のごとし。
上に堕涙の碑のあり、
青苔して久しく磨滅せり。

とか、また

君見ずや、晋朝の羊公一片の石、
亀頭剥落して莓苔を生ず。
涙またこれがために堕つ能はず、
心またこれがために哀しむ能はず。

とか、あるひはまた後に追懐の詩の中に

空しく思ふ羊叔子、
涙を堕す※(「山+見」、第3水準1-47-77)山のいただき。

と感慨を詠じたりしてゐる。
なるほど、さすがの羊公も、今は一片の石で、しかも剥落して青苔を蒙つてゐる。だから人生はやはり酒でも飲めと李白はいふのであらうが、ここに一つ大切なことがある。孟浩然や李白が涙を流して眺め入つた石碑は、羊公歿後に立てられたままでは無かつたらしい。といふのは、歿後わづか二百七十二年にして、破損が甚しかつたために、梁の大同十年といふ年に、原碑の残石を用ゐて文字を彫り直すことになつた。そして別にその裏面に、劉之※[#「二点しんにょう+隣のつくり」、105-8]の属文を劉霊正が書いて彫らせた。二人が見たのは、まさしくそれであつたにちがひない。こんなわけで碑を背負つてゐる台石の亀も、一度修繕を経てゐる筈であるのに、それを李白などがまだ見ないうちに、もうまた剥落して一面にあをあをと苔蒸してゐたといふのである。そこのところが私にはほんとに面白い。
この堕涙の碑は、つひに有名になつたために、李商隠とか白居易とか、詩人たちの作で、これに触れてゐるものはもとより多い。しかし大中九年に李景遜といふものが、別にまた一基の堕涙の碑を営んで、羊※(「示+古」、第3水準1-89-26)のために※(「山+見」、第3水準1-47-77)山に立てたといはれてゐる。が、明の于奕正の編んだ碑目には、もはやその名が見えないところを見ると、もつと早く失はれたのであらう。そしてその碑目には、やはり梁の重修のものだけを挙げてゐるから、こちらはその頃にはまだあつたものと見えるが、今はそれも無くなつた。
※(「示+古」、第3水準1-89-26)は身後の名を気にしてゐたものの、自分のために人が立ててくれた石碑が、三代目さへ亡び果てた今日に至つても、「文選」や「晋書」や「隋書経籍志」のあらむかぎり、いつの世までも、何処かに彼の名を知る人は絶えぬことであらう。彼の魂魄は、もうこれに気づいてゐることであらう。またその友人、杜預が企画した石碑は、二基ともに亡びて、いまにして行くところを知るよしもないが、彼の著述として、やや得意のものであつたらしい「左氏経伝集解」は、今も尚ほ世に行はれて、往々日本の若い学生の手にもそれを見ることがある。だから、大昔から、人間の深い期待にもかかはらず、石は案外脆いもので寿命はかへつて紙墨にも及ばないから、人間はもつと確かなものに憑らなければならぬ、と云ふことが出来やう。杜預の魂魄も、かなり大きな見込み違ひをして、たぶん初めはどぎまぎしたものの、そこを通り越して、今ではもう安心を得てゐるのであらう。

隅田の春


隅田の春

饗庭篁村

第一囘

三月二十日、今日けふ郡司大尉ぐんじたいゐ短艇遠征たんていゑんせいかうを送るに、ねて此壮図このさうと随行ずゐかうして其景況そのけいきやうならびに千島ちしま模様もやうくはしくさぐりて、世間せけん報道はうだうせんとてみづから進みて、雪浪萬重せつらうばんちよう北洋ほくやう職務しよくむためにものともせぬ、朝日新聞社員あさひしんぶんしやゐん横川勇次氏よこかはゆうじしを送らんと、あさ未明まだきおきいでて、かほあらも心せはしく車をいそがせて向島むかふじまへとむかふ、つねにはあらぬ市中しちうにぎはひ、三々五々いさましげにかたふて、其方そのかたさしてあゆむ人はみな大尉たいゐかうを送るの人なるべし、両国橋りやうごくばしにさしかゝりしは午前七時三十分、や橋の北側きたがは人垣ひとがきたちつどひ、川上かはかみはるかに見やりて、みどりかすむ筑波つくばの山も、大尉たいゐが高きほまれにはけおされてなど口々くち/″\いふ、百ぽんぐひより石原いしはら河岸かし、車の輪もまはらぬほど雑沓こみあひたり、大尉たいゐとも露伴氏ろはんし実兄じつけいなり、また此行中このかうちうわが社員しやゐんあれば、此勇このいさましき人の出を見ては、他人の事と思はれず、我身わがみほまれ打忘うちわすれられてうれしくひとりゑみする心のうちには、此群集このぐんしふの人々にイヤ御苦労さまなど一々いち/\挨拶あいさつもしたかりし、これによりて推想おしおもふも大尉たいゐ一族いちぞく近親きんしん方々かた/″\はいかに、感歓かんくわんまりて涙にむせばれしもあるべし、人を押分おしわくるやうにしてからく車を向島むかふじままでやりしが、長命寺ちやうめいじより四五けん此方こなたにてすゝむひくもならず、他の時なればうるさき混雑こんざつやと人をいとおこるべきに、ただうれしくてこらへられず、車をりて人のすまゝに押されて、言問団子ことゝひだんごの前まではきしが、待合まちあはす社員友人の何処いづこにあるや知られず、つゝがなくうまいでしといふやうに言問ことゝひの前の人の山をくぐいでて見れば、うれしや、こゝ福岡楼ふくをかろうといふに朝日新聞社員休息所あさひしんぶんしやゐんきうそくじよふだあり、極楽ごくらく御先祖方ごせんぞがた御目おめかゝつたほどよろこびてろうのぼれば、社員しやゐん充満みちみちていづれも豪傑然がうけつぜんたり、機会ときにあたれば気は引立ひきたつものなり、元亀げんき天正てんしやうころなれば一国一城のぬしとなる手柄てがらかたからぬが、きしつゝみ真黒まつくろ立続たちつゞけし人も豪傑然がうけつぜんたり、はいよ/\うれしくてたまらず、川面かわづらは水も見えぬまで、端艇ボート其他そのたふねならびて漕開こぎひらき、まは有様ありさま屏風びやうぶに見たる屋島やしまだんうら合戦かつせんにもて勇ましゝ、大尉たいゐ大拍手だいはくしゆ大喝采だいかつさいあひだに、ふねよりふねわたりて、其祝意そのしゆくいをうけらるゝは、当時そのかみ源廷尉げんていゐ宛然えんぜんなり、にくうごきて横川氏よこかわしとも千島ちしまかばやとまでくるひたり、ふね大尉たいゐ萬歳ばんざい歓呼くわんこのうちにいかりげて、此帝都このていとを去りて絶海無人ぜつかいむじんたうをさして去りぬ、さかんなるさまを目撃したる数萬すうまんの人、各々めい/\が思ふ事々こと/″\につき、いかに興奮感起こうふんかんきしたる、ことに少壮せうさうの人の頭脳づなうには、此日このひ此地このち此有様このありさまなが描写べうしやとゞまりて、後年こうねんいかなる大業たいげふ種子たねとやならん、つどへる人を見て一種いつしゆたのもしき心地こゝちおこりたり、此一行このいつかう此後こののち消息せうそく社員しやゐん横川氏よこかはしが通信にくはしければ、読みて大尉たいゐ壮行さうかうわれともにするの感あり、此日このひよりのちことにして、此日このひ只一人たゞひとりうれしくて、ボンヤリとなり、社員にもせず、ブラ/\と面白おもしろき空想をつれにしてどて北頭きたがしら膝栗毛ひざくりげあゆませながら、見送みおくはててドヤ/\と帰る人々が大尉たいゐとしいくつならんの、何処いづこ出生しゆつしやうならんの、あるひ短艇ボートこと千島ちしま事抔ことなどうはさしあへるを耳にしては、それあれかうと話してきかせたく鼻はうごめきぬ、洋杖ステツキにて足をかれし其人そのひとにまで、此方こなたよりゑみを作りて会釈ゑしやくしたり、何処いづくとさしてあゆみたるにあらず、あしのとまるところにて不図ふと心付こゝろづけば其処そこ依田学海先生よだがくかいせんせい別荘べつさうなり、こゝにてまたべつ妄想まうさうきおこりぬ。

第二囘

おもへば四年よとせの昔なりけり、南翠氏なんすゐしとも学海先生がくかいせんせい別荘べつさうをおとづれ、朝よりゆふまでなにくれとかたらひたることありけり、其時そのとき先生せんせいしめさる。

庚寅一月二十二日、喜篁村南翠二君見過墨水弊荘、篁村君文思敏澹、世称為西鶴再生、而余素愛曲亭才学、故前聯及之、
巨細相兼不並侵、審論始識適幽襟、鶴翁才気元天性、琴叟文章見苦心、戯※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)諷人豈云浅、悲歌寓意一何深、梅花香底伝佳話、只少黄昏春月臨

まことに此時このときうららかにかぜやはらかくうめの花、のきかんばしくうぐひすの声いと楽しげなるに、しつへだてゝきならす爪音つまおと、いにしへの物語ぶみ、そのまゝのおもむきありて身も心もきよおぼえたり、の帰るさ、またもとの俗骨ぞくこつにかへり、われも詩を作ることを知りたるならば、へたながらも和韻わゐんと出かけて、先生をおどろかしたらんものをとまけだましひ、人うらやみ、出来できことをコヂつけたがる持前もちまへ道楽だうらくおこりて、其夜そのよ詩集ししふなどいだして読みしは、われながら止所とめどころのなき移気うつりぎや、それ其夜そのよの夢だけにて、翌朝よくあさはまた他事ほかのこと心移こゝろうつりて、わすれて年月としつきたりしが、うめの花のくを見ては毎年まいとし此日このひくわいみやびなりしをおもして、詩を作らう、詩を作らう、和韻わゐんに人をおどろかしたいものともだへしが、一心いつしんつては不思議ふしぎ感応かんおうもあるものにて、近日きんじつ突然とつぜんとして一詩たり、

往年同須藤南翠、訪依田学海君※(「さんずい+(壥-土へん-厂)」、第3水準1-87-25)上村荘、酒間、君賦一律見贈、今巳四年矣、昨雨窓無聊偶念及之、即和韻一律、録以供一笑之資云、
村荘不見一塵侵、最好清談披素襟、游戯文章猶寓意、吟嘲花月豈無心、新声北部才情婉、往事南朝感慨深、我亦多年同臭味、待君載筆屡相臨、

ナントおつ出来でかしたではござらぬか、此詩このし懐中くわいちうしたれば、もんたゝいておどろかしまをさんかとは思ひしが、夢中むちう感得かんとくなれば、何時いつ何処どこにても、またやらかすとわけにはかず、コレハ/\よく作られたと賞揚しやうやうばん、そのあと新詩しんし一律いちりつまたおくられては、ふたゝび胸に山をきづく、こゝはおほきかんがへもの、まのあたさゝげずに遠く紙上しじやう吹聴ふいちやうせば、先生ひげにぎりながら、フムと感心のコナシありて、此子このこなか/\話せるワエと、たちま詩箋しせん龍蛇りうだはしり、郵便箱いうびんばこ金玉きんぎよくひゞきあることになるとも、われまた其夜そのよ思寝おもひね和韻わゐんの一をすら/\と感得かんとくして、先生のみか世人よのひとおどろかすもやすかるべしと、門外もんぐわい躊躇ちうちよしてつひにらず、みちひきかへて百花園くわゑんへとおもむきぬ、しん梅屋敷うめやしき花園くわゑんは梅のさかりなり、御大祭日ごたいさいびなれば群集ぐんしふ其筈そのはずことながら、これはまた格別かくべつにぎはひ、郡司大尉ぐんじたいゐ壮行さうかうをまのあたり見て、子やまごかたりて教草をしへぐさにせんと、送別さうべつほか遊人いうじんも多くして、かへさは※(「筑」の「凡」に代えて「おおざと」、第3水準1-89-61)つゑこゝきしもすくなからで、また一倍いちばいにぎはひはありしならん、一にんこゝろざしをたて国家こくかため其身そのみをいたせば、満都まんとひとな動かされて梅の花さへ余栄よえいたり、人は世にひゞわたるほどの善事よきことしたきものなり、人は世に効益かうえきあたふる大人君子たいじんくんしむかひては、直接の関係はなくとも、く間接の感化かんくわをうくるものなれば、尊敬の意をうしなふまじきものなりなど、花は見ずして俯向うつむきながら庭をめぐるに、花園はなぞのひらきて、人の心をたのします園主ゑんしゆ功徳くどく、わづかの茶代ちやだいらるゝものならず、此園このゑんはそもいかにしてだれが開きしぞ。

第三囘

梅屋敷うめやしきは文化九年の春より菊塢きくうが開きしなり、百花園くわゑん菊塢のでん清風廬主人せいふうろしゆじん、さきに国民之友こくみんのともくはしくいだされたれば、誰人たれびとも知りたらんが、近頃ちかごろ一新聞あるしんぶん菊塢きくう無学むがくなりしゆゑ、詩仏しぶつ鵬斎ぼうさい詩文しぶんにてなぶりものにされたりといふことえたるが、もとより菊塢きくう世才せさいにはたけたれど学文がくもんはなし、詩仏しぶつ鵬斎ぼうさい蜀山しよくさん真顔まがほかげ春海はるみ当時そのころ聞人もんじん幇間半分たいこはんぶんなぶり者にせられしには相違さうゐなし、しか諸名家しよめいか菊塢きくう無祝儀むしゆうぎ取巻とりまき同様どうやうにするあひだに、菊塢きくうはまた諸名家しよめいか無謝儀むしやぎにて使役しえきせしなり、聞人もんじんといふものはいつの世にても我儘わがまゝ高慢かうまんぜにつかはぬくせに、大面おほづらで悪く依怙地えこぢで、自分ばかりが博識ものしりがるものなり、菊塢きくう奥州おうしうよりボツト出て、堺町さかひてう芝居茶屋しばゐぢやや和泉屋いづみやかんらうかた飯焚めしたきとなり、気転きてんくより店の若衆わかいしゆとなり、客先きやくさき番附ばんづけくばりにも、狂言きやうげんのあらましを面白おもしろさうに話して、だん/\取入とりいり、俳優やくしや表方おもてかたの気にも入り、見やう聞真似きゝまね発句ほつく狂歌きやうかなど口早くちはや即興そくきようにものするに、茶屋ちやや若者わかいものにはめづらしいやつと、五代目白猿はくゑん贔屓ひいきにされ、白猿はくゑん余光よくわう抱一はういつ不白ふはくなどのもとへも立入たちいるやうになり、香茶かうちや活花いけばなまで器用であはせ、つひ此人このひとたちの引立ひきたてにて茶道具屋ちやだうぐやとまでなり、口前くちまへひとつで諸家しよけ可愛かあいがられ、四十年来の閲歴えつれき聞人達もんじんたち気風きふう呑込のみこみたれば、たゞ諸名家しよめいか御休息所ごきうそくじよを作り、御褒美ごほうびにはうめぽんづゝうゑくだされと、かね卑劣ひれついでざる名案めいあんうめぽん寄附主きふぬしが、和尚おしよう如何どうだナなど扶持ふちでもしてくやうにはゞかせて、茶の呑倒のみたふしを、コレハ先生よくこそ御来臨ごらいりんさいはかたより到来たうらい銘酒めいしゆ、これも先生に口をきついただくは、青州せいしう従事じゆうじ好造化かうざうくわなどゝきゝかぢりと、わざと知らせて馬鹿ばかがらせてよろこばせれば、大面先生おほづらせんせい横平よこひらたく、其面そのつらまはし、菊塢きくう可笑をかしやつだ、今度の会は彼処あすこもよほしてやらうと有難ありがたくない御託宣ごたくせん、これが諸方しよはう引札ひきふだとなり、聞人達もんじんたち引付ひきつけで、諸侯方しよこうがたまで御出おいでになり、わづかのうちに新梅屋敷しんうめやしきの名、江都中えどぢうに知られ、それのみならず先生々々せんせい/\たてこがしに、七草考なゝくさかう都鳥考みやこどりかうのと人に作らせて、我名わがなにて出版せしゆゑ、知らぬものは真の文雅ぶんがとおもひ、とひよるさへも多ければ、たちま諸国しよこくにもそのの名をかほらせ、枝葉えだはさかえ、それのみか、根堅ねがた名園めいゑんのこして年々ねん/\繁昌はんじやう、なみ/\の智恵ちゑ生才学なまさいがくにて長栄不朽ちやうえいふきう計画けいくわくのなるべきや、気を取りにくき聞人もんじんの気をよく取りてみな我用わがようとなしたるは、多くがたき才物さいぶつなり、もし戦国せんごくときにあらば、うまく英雄の心をりて、いかなる奇功きこうたてたるやはかりがたし、こと此地このちに一名園めいゑんくはへたるは私利しりのみなりといふべからず、さて菊塢きくう老年らうねんには学問も少しは心がけしと見え、狂歌きやうか俳句はいくのみ手づゝにはあらず、ざうする菊塢きくうの手紙には、うめ一枝いつしゑがきて其上そのうへそのの春をおわかまをすといふ意味の句あり、また曲亭馬琴きよくていばきんめいしつしてのち、欝憂うさを忘るゝためにおのれと記臆きをくせし雑俳ざつぱいかきつらねて、友におくりしうちに、この菊塢きくう狂歌きやうかしゆ発句ほつくあり、(手紙と其書そのしよ移転ひつこしまぎれにさがしても知れぬは残念ざんねんにもかくにも一個いつこ豪傑がうけつ山師やましなにやらゑし隅田川すみだがは」と白猿はくゑんが、芭蕉ばせうの句をもじりて笑ひしは、其身そのみが世の名利みやうりかゝはらねばなり、此日このひるものみなうれしく、人のわざ有難ありがたおもひしは、朝の心の快濶くわいくわつなりしうつりか、その飛々とび/\ひとり隅田すみだ春光しゆんくわう今日けふあたらし。(明治26年3月~4月「東京朝日新聞」)